#07 ニッポンダンディ?

18才まで九州で育った。「男の子だから云々」と親や大人に事ある度に言われながら育った。なんの疑問もなくそう信じて少年時代を過ごした。
男らしくないことをしでかした時はこっぴどく怒られた。「男だろっ!」「男でしょ!」と強く言われると、「男の子」であることを証明するしか生きる道はないように思えた。逆に、多少のやんちゃをするぐらいでないとみたいな雰囲気もあったので「男の子だからしょうがない。」で許される時もあった。
東京に出て来てからも、「九州男児だね。」と友人から評されることがあった。典型的だったのだろう。自分でもその気になって、それらしく振る舞ったこともあった。

確かに「男の子」という単語には、魔法の力があった。ひるんだり弱気になったりしたとき、心の中で「男の子だろ?」「男の子!」と自問自答すると不思議に勇気が湧いていた。酒の一気飲みをするときも、好きな女の子にアタックするときも、麻雀で危険牌を通すときも、いろいろと言い訳したい気持ちを飲み込むときも、会社で上司に直言するときも、会社を辞めて起業するときも、と、無謀で馬鹿馬鹿しい事から人生に関わる大事な決断の時まで、この言葉を唱えた。自分の意志や決断や美学を包括して後押ししてくれる言葉だった。


この数年ほど、僕はこの言葉をすっかり使わないようになった。
世の中も変わったし、僕自身も変わって、「男の子!」がビシッと決めの言葉にならなくなったのだ。男女平等、安全、安心、経済合理性、コミュニケーションの面から、時代遅れで野蛮なニュアンスさえ持つようになってしまったからだ。「日本男児」「九州男児」という言葉も歴史やノスタルジーの中で語られることや、やたら仰々しい場面で使われるようになってしまった。

「男の子!」に代わる言葉はまだ見つけていない。部分部分で通用する言葉は増えたが、どんなことにも通用する万能の言葉はそう簡単には見つからない。多様な価値観、個性を尊重する社会にはなってきているのに、自分自身はなんとなくフワフワして納まりどころの無い感じがするときに、どっしりと存在感を持って力を発揮する言葉があればと思うこともあった。

最近、気になった二つのCMがある。「ん?」と僕の「男」センサーが久しぶりに反応した。

『ニッポン ダンディ?』桑田佳祐が問いかけるCMがある。ダンディハウスというメンズエステティックサロンのCMだ。

海外のパーティ会場にいる桑田佳祐演じる日本人男性が、孤軍奮闘するものの外国人男性みたいにビシッと決められない。むしろカッコ悪い。情けない桑田佳祐の顔のアップ画面で、『ニッポン ダンジ?』じゃなくて、『ニッポン ダンディ?』と来る。

気になって検索してみると、キャンペーンコンセプトとしてこんなことが書いてあった。

『ニッポン ダンディ?』
日本の女性は美しくなった。オトコはどうだ?
いきいきと暮らす、大和撫子が主役になったいまだから。
日本男児のカッコよさが、見えにくくなったいまだから。
さあ、いまいちど、この問いかけからはじめてみよう。
「ニッポン ダンディ?」
外見も、中身も、そのどちらも欠けることのないほんとうのカッコよさへ。
日本の男たちが、カッコよくなるのはこれからだ。


もうひとつは、『日本の男よ、ためらうな』というキャッチコピーの日本コカ・コーラの新商品ゼロの宣伝だ。コーラの自動販売機にポスターが貼ってある。スーツを着た若サムライが刀をかざしている。チョンマゲがコーラのボトルになっている。

直接的には「躊躇なくコカ・コーラの新商品を買え」ということなんだろうけど、缶コーヒーを買いに行った僕はちょっとドキッとした。確かにためらっている男たちは多いなあなんて思いながら立ち止まって見入ってしまった。そして黒いアルミ缶の新商品を買ってしまった。(テレビCMもあるようだ。HPで見ることができる。)

日本コカ・コーラ株式会社のプレスリリースにはこう書いてあった。


現代の日本の男性たちは、その多くが、社会に自分が飼いならされていく不安をかかえており、本来の男としてシャープでありたいという願望を抱いています。彼らにとってのシャープさとは、自分の中の直感を信じ、ためらいなく大胆な行動に移すことであり、“侍”は、まさしく“ためらわない確固たる意志と決断力、品格を兼ね備えている男”の象徴です。日本刀を手に、スーツを身にまとい、「コカ・コーラ ゼロ」の500mlペットボトルの“ちょんまげ”スタイルと、キリッとした表情が印象的な「コカ・コーラ ゼロ 侍」は、現代社会における“決断力のあるシャープな男”を象徴しています。


そんなこと言われてもなあ。男はつらいよ。』が正直なところだが、やせがまんしてトライしてみる価値があるかも知れない。

次回に続く